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但馬の大島家墓地に行ってきました【大島義光】

青山霊園の大島家の墓地に幾つか大きな墓が建っています。それらは、大島貞薫・教子夫妻、大島貞敏・濱子夫妻、大島貞恭・續子夫妻、大島六郎・信子夫妻のお墓です。このうち、最初の貞薫・教子ご夫妻が、それ以降の方々(男子)の親にあたり、東京に出てきた大島一族の祖先です。ではそれ以前はどうなのか。

大島家はその昔、但馬国(現在の兵庫県北部)養父郡大藪(現在の養父市大藪)の所領1500石の旗本、大藪小出家の家臣でした。同地の泉光寺(写真1)が大藪小出家の菩提寺で、そこに大島家の墓もあります。貞薫翁のご両親の大島貞利・綱子ご夫妻までの墓が並んでいます(写真2)。

(写真1)泉光寺 (写真2)泉光寺の大島家の墓

(写真1)泉光寺:兵庫県養父郡養父町大藪495 臨済宗妙心寺派清龍山泉光寺

(写真2)泉光寺の大島家の墓

つまり我々の祖母、大島雪さんから三代遡った先祖の墓は養父市にあるということです。

報告が遅くなりましたが、それを訪ねるために去る9月の初めに但馬の大島家墓地に行ってきました。(以下長文です)

上述の大島貞利さんは俳諧を嗜み、晩年は松翁と号していました。大藪の貞利さんの墓には「松翁居士 わが伽になれと 長居か蛬(きりぎりす) 看すみす露の霜となる時 梅室」と、自身の発句と俳句の師匠櫻井梅室さんが添えた脇句が刻まれています(写真3)。

(写真3)大島貞利さんの墓

(写真3)大島貞利さんの墓

このほかにも境内に一つ、「こうのとりの碑」と称し「相(あい)なれて 三日千寿(ちとせ)の 別かな」というのがあり、また墓地の脇の参道の一角にももう一つ句碑が建てられています。このうち前二件は兵庫県が運営するネットミュージアム「兵庫文学館」にも採り上げられています。(兵庫文学館(7) (8)

また貞利さんの奥様、綱子さんも俳句を嗜み、楓露と号しました。お墓は青山墓地にあり、碑面に「月も日ももみちのうへにいりにけり」と刻まれています(写真4)。

(写真4)楓露儒人の墓(東京 青山墓地内)

(写真4)楓露儒人の墓:東京 青山墓地内

大島貞利さんの子、大島貞薫さんは元治二年 (1865年) 60歳で年寄 (重臣の位) に昇進、慶応四年 (1868年) 隠居し、家督を貞敏さんに譲っています。慶応四年とは明治元年で、翌明治二年に幕藩体制が終わり、小出家との主従関係は終わりを告げました。

貞薫さんは明治元年5月、新政府から「兵学教授」に任命され、その後兵学校の移転に伴い、住居も大藪、京都、大阪、東京と移っています。明治6年7月まで務め、退官しました。

貞利・綱子ご夫婦には二男二女があり、男の一人が貞薫さんですが、他の一人は黒澤貞備さんと言い、近くの糸井村の黒澤家に養子に入っています。貞備さんは実は大島義清さんのお祖父さんです。義清さんは貞薫さんの孫、大島雪さんと一緒になり、我々が生まれたもととなった訳です。

ということで、黒澤貞備さんも我々の祖先というわけで、黒澤家のお墓にもお参りに行きました。

黒澤家は、やはり但馬国の、養父郡・美合郡糸井の所領2,000石の旗本、糸井京極家の家臣でした。菩提寺は光福禅寺(写真5)で、そこに黒澤家の墓もあります(写真6)。

(写真5)光福禅寺 (写真6)光福禅寺の黒澤家の墓

(写真5)光福禅寺:兵庫県朝来市寺内346 臨済宗妙心寺派光福禅寺

(写真6)光福禅寺の黒澤家の墓

黒澤貞備さんは、ご存知の方もあると思いますが、幕末期に徳川幕府から派遣された使節の一人京極高朗氏に随行して欧州まで旅行しています。道中日記をつけており、それが「ヨーロッパ航日録」として残されています。

糸井京極氏の居城であった糸井陣屋はその後寺内小学校(その昔大島義清さんが通っていました)となり、現在は朝来市和田山町の和田山町立郷土資料館になっています。

二年ほど前ここで「幕末、欧羅巴へ渡った黒澤貞備の記録」と題した展示会が開催されています。上記の「ヨーロッパ航日録」を主体にしたもので、私が訪問したときも、そのときの展示の状態がかなり残されていました。

(写真7)和田山町立郷土資料館で開催された黒澤貞備展のあと

(写真7)和田山町立郷土資料館で開催された黒澤貞備展のあと

資料館を訪問したとき資料館の係りの方が親切に御説明くださったのですが、私が黒澤貞備の子孫であると言ったら驚いておられました。

大島家の詳しい話については末尾の参考文献に記されていますので、ご参照ください。

同地には過去大島義邦・浩子夫妻および市川新・絋子夫妻が訪問されています。私は同地に行くに当たり、義邦さんから情報を得ました。

泉光寺は現在住職が居らず、西宮市在住の元住職のお嬢さん、岸冨美子さんがご主人の吉尭さんとともに管理してくださっています。また、光福禅寺のほうは、鈴木文孝さんがご住職をなさっておられます。

また黒沢貞備さんのご子孫の相馬信子さん、山本治子さんにもお世話になりました。光福禅寺の黒澤家のお墓は、相馬信子さん、山本治子さんご姉妹のご努力によりまとめられたものです。

今回の訪問では、以上の皆さんにお世話になり、実りある訪問にすることが出来ました。ここで御礼を申し上げます。

[参考文献]

(1)須田信英「大島貞薫翁について」(私家版)

(2)須田信英「月も日も--ある一族の明治前半期--」、適塾 第十五号、昭和五十七年

(3)大島文義「わが祖大島貞薫」(私家版)、昭和五十八年

(4)大島文義、大島幹義「わが祖祖父のことば--大島貞薫および黒澤貞備の書簡--」(私家版)、昭和五十二年十月

(5)大島弘義、大島重義、大島文義「大島氏系譜補稿」(私家版)、昭和三十二年五月三十一日

(6)黒沢貞備著、黒沢重一編「ヨーロッパ航日録:文久二年遣欧使節に随行した家臣黒澤貞備の日記」(私家版)、2000、(昭和36年刊の複製)

*以上の資料は代々木大島系の各家に配布されていると思います。なければ、お近くの方にお聞きになれば、お持ちの方がおられると思います。

(7)ネットミュージアム 《兵庫文学館

(8)ネットミュージアム 《兵庫文学館

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2016年12月31日 21:44に投稿されたエントリーのページです。

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