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19世紀に米国でフットボールをプレーした桑田権平

市川 新氏  特別寄稿

『19世紀に米国でフットボールをプレーした桑田権平』

-日本人最初のフットボール選手-

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包帯を巻いてベンチに座る桑田権平自画像米国で現在のアメリカンフットボールの形式のゲームが行われたのは1874 年。バーバード大学とマギル大学の大学対抗戦に由来する。その僅か数年後に米国に渡った桑田権平という日本人がフットボールをプレーしたという史実が解った。

壮年時代の桑田権平(スピンドル製造研究時代)これまで日本人が米国でフットボールをプレーしたのは、1917 年にシカゴ大学にコーチ理論を実地で学んだ岡部平太が初めとされてきたが、それにさかのぼること20 数年前。日本で初めて公式にフットボール・ゲームが行われた1934 年(昭和9年)からは、40 年以上も前のことだった。

東京大学アメリカンフットボール創始メンバーで、元日本協会理事の市川新氏が現地を訪ね、その衝撃の事実を明らかにした。

※写真は1893 年のウースター工科大学(当時)イヤーブックのフットボールのページ。フットボールで負傷し、頭に包帯を巻いてベンチに座る桑田権平の自画像が載っている。

衝撃の「自伝」

 日本でのフットボールの歴史は、1934年(昭和9年)に早稲田大学、明治大学、立教大学でそれぞれアメリカンフットボール部が創立され、今でいうリーグ戦が始まった時と言われ、日本協会ではその年をフットボール元年としている。

 しかし、それ以前に米国でフットボールをしていた人がいたのではないかという思いがしていた。日本体育学会の資料(日本体育学会体育史専門分科会:1967)には、大正初期の1910年代に東京高等師範(現筑波大学)の岡部平太ほかが米国に留学してフットボールの練習に参加したこと、さらに1927年に同師範がフットボールの研究を行い、同年6月に成蹊高校のグラウンドで日本最初の試合を行ったとの記載がある。この時はハワイ大学の日本人学生が指導したと書かれている。その前というと、資料がより限られており、日本人最初のフットボールプレーヤーを実証することはほとんど不可能で諦めかかっていたが、たまたま桑田権平という人の「自伝」(桑田権平:1958)というのを見ていたところ、以下の記事に出会った。

『スポーツでは私も負けずに米学生の仲間に入り、一哩(マイル)競争では対抗試合にも出て走り、五哩マラソンでは初めの十人に入り、徒歩競争ではしばしば優勝したことがありました。足は米人より短いが、心臓の方が強いので息切れしなかったのがよかったのでしょうか。

 フットボールでは一度危険な目にあいましたので止めました。自分は体が小さいのでクオーターバックという役で肥大なフルバック選手の背後に屈んで居て、合図とともに球を受け取り、それを所定の選手に渡す役でした。ある時の試合でこの大きな男が這って来て私の首の上に倒れ、私の首と体とは「くの字」に曲げられ、首の筋が音を立てて鳴ってそのままほとんど人事不省に落ち入り、数日間は全く首が回らず、それからフットボールをやめました』

WPIの2011年度GOMPEIのTシャツを着る筆者 桑田権平(以下権平と記す)は、1870年(明治3年)生まれ。慶応幼稚舎卒業後の1883年(明治16年)満13歳の時に渡米。

米国で中高を経て、1890年(明治23年)にボストン近郊のウースター工科大学( 現在はWorcester PolytechnicInstitute:略称WPI)機械工学科に入学した。

ボストン近郊のニューイングランドには、北海道大学に来たウィリアム・スミス・クラーク先生が勤務していたアーマスト大学があり、その当時日本から多くの留学生がいた。

クラーク博士とほぼ同時代に来日し、石炭・石油の探査を行ったライマン(Benjamin Smith Lyman:1835?1920)が帰国後、叔父の桑田知明を招へいした際に権平は同行した形で渡米している。ライマン氏はボストン近郊のノーザンプトン市出身でハーバード大学に学び、オハイオ州等の地質調査をしたのちにドイツ、フランスに留学して鉱山学を学び、インドの石油調査をした後に日本を訪問。特に北海道の石炭・石油の調査に従事した。権平の中学・高校時代にかけて、ライマン氏が保証人のような形で面倒を見ていた。

権平が中学・高校を米国で過ごしたことは、完全に米国文化を吸収した米国人になりきっていたことでもあり、クラスの人気者となって各種の校内行事に参加していたようである。

 上記のマラソン(その当時はクロスカントリーと呼ばれていた)にも参加したし、フットボールをしたようである。それらは高校時代になじんでいたためと思われる。因みに日本では、フットボール部に入ると大学では4年間フットボール漬けになるが、米国ではシーズン制で春と秋のシーズン以外に他のスポーツをするのが普通なのである。

 この自伝の記載が本当なら、権平がフットボールをしたのは今から約120年前ということになり、フットボール元年の1934年より43年以上前、岡部平太の時代よりさらに20年ほど前ということになり、これはフットボールの歴史を書き換えることになる「大発見」と思った。

 WPIに問い合わせたところ、1893年卒業組のイヤーブック(日本でいう卒業文集)が作られており、現在も同大学の図書館(アーカイブ)に保存されていることを知った。それを入手してみると、その編集長は権平の親友のコミンズ氏(Comins:A.C. 1893)で、権平はそのイヤーブックの編集助手の一人として、その本の中に数十枚のスケッチを描いていることが分かった。権平は器用で絵の才能があったようで、学生時代から様々なデッサンを描いており、そのいくつかは現在も残されている。

前列右から3人目に権平の姿

 この本の中に先に述べたクロスカントリーで優勝した時に一緒に走った選手との写真(Comins : A.C.-2 1893)が掲載されている。前列右から3番目の人物が権平である(左写真上)。

 フットボール部の紹介記事には権平が選手と一緒には写っていないが、その部を紹介したページに、頭に包帯を巻いてベンチで座っている選手がいる(前ページ右上)。これは「権平の自画像」で、これこそが彼が米国でフットボールをしていたことを証明する「証拠」と思いここに掲載する(Comins:A.C. -31893)。

この頃米国でフットボールが産声を上げたばかりで、極めて乱暴な競技で怪我がたえなかった時代だし、防具すらままならない時代であった。

「権平」、「GK」、「GOMPEI」 WPIではクラスの名前を卒業年度で示すことになっている。つまり1890年入学で、1893年卒業予定の学生は「93年組」と呼ばれる。このクラスではフットボールその他の野外イベントにマスコット、それも生きたマスコットを連れて行くことを1981年の春に決定し、クラスの性格等から判断し「ヤギ」をマスコットにすることにした。

そこで権平を含む3人が近郊農家まで出向きヤギを購入し(とはいえ実際には拉致したのと同じような状況)、それを飼育しながら試合等に連れて歩いていた。

 そのヤギの飼育者=Goat Keeperに権平が指名された。彼がすでにクラスに溶け込み、このマスコット決定に当たり貴重な意見を述べていたこと、ヤギを大学まで連れて帰るに当たり、ヤギをうまく制御していたことが任命された理由であるが、権平のイニシャルGKとGoat Keeperのイニシャルが同じこと、そしてクラスにはそれと同じイニシャルを持った学生がいなかったことが、選任された最大の理由であった(Comins:A.C. 1928)。

 ヤギを連れまわすことは簡単かもしれないが、それをするためには餌をやり、外敵から守ってやらなければならず大変な仕事であった。特に夏休みに学生がいなくなる時期に飼っておくことは不可能であった。そこで最終的にこのヤギは殺され、その首ははく製にされ、飾り付けられてマスコットの代用になった。その結果、このヤギの頭の名前が初代ヤギの飼育者GoatKeeperの名前であるGompei と名付けられ、現在でもWPIのマスコットとなっている。

 1928年卒業の組がこの伝説を基に、ヤギのブロンズ像をつくった。頭はほぼ実物大であるが、身長は短く、特に足を短くしたミニチュアを作成し、それをGompeiと名付けてクラス対抗戦勝者のクラスに贈呈する「システム」を作り、現在も続けられている(WPI:2011)。

 クラス対抗とは綱引き、有名人探し、エスキモーリレー、玉入れ、記念日の旗取り合戦の5種目を1年間かけて行い、その総合得点で勝者を決定する。そのほか、同窓会主催で「Gompeiの誕生日会」が開催され、そこでパイ投げをはじめとするパーティゲームが行われ、ヤギの頭をかぶった学生との記念撮影をする「行事」が行われている。この模様はWPIのホームページにも掲載されている(WPI:2011)。

また、その会に合わせてGompeiの名前の入ったTシャツが作られ、販売されている。写真はそれを着た筆者と東大ウォリーアーズのTシャツを交換した時のものである(右ページ下の写真)。

 WPIの図書館の地下1階はアーカイブ(古文書館)となっており、権平が同級生で先に述べたコミンズ氏に宛てた手紙(ほとんどが自筆)約100通が5つの箱に整理保存されている。権平は帰国後に紡績会社で使用する紡錘器(スピンドル)の製造を行う会社を設立して成功するが、その当時同業者であったコミンズ氏に相談をしたり、材料や原料の入手と船積みを依頼したりした関係から、このように多数の手紙を出したものと思われる。コミンズ氏の死後娘さんからWPIに寄贈されたもので、その中には日本の戦前の写真があり、貴重なものも多数存在する。

 彼より早く米国留学した学生、研究者、政府役人、軍人は多数存在するので、権平が本当に最初のフットボールプレーヤーか? と問われると自信はない。ただ、当時年齢の高い留学生が多かったのでフットボールをする余裕がなかったと考えている。津田梅子ほかの少女が政府の方針で渡米したのは1871年であり、権平の留学に先立つこと12年であるが、それと同じような若い男子留学生は少なかった。またハワイへの移民は明治元年(1868年)から行われていたが、実態はかなり厳しい労働者としての移民が多かったので、一世が大学でフットボールができるような環境ではなかった。

 こう考えると、権平は若い留学生としては初期の一人であり、権平以前のフットボールプレーヤーはいなかったか、いても極めて限られた人数であったと思われる。

つまり権平がフットボールをした最初、あるいはそのグループに属する人であると考えていいと思っている。

 このように権平という120年前の日本人留学生は、今でもキャンパスの中でWPIの「学生たちの取りまとめ」の一翼を担い、それが日米の重要な架け橋となっていること、そして何よりも日本人最初のフットボールプレーヤーとして日本のアメリカンフットボールの普及史上最大の貢献者なのである。

WPIマスコットの「GOMPEI」と戯れる筆者 ちなみに筆者の祖母は権平の姪(権平の長姉の長女)に当たる。筆者が50年以上前に東京大学でフットボール部を創立した時にはこのような因縁は全く知らなかったが、その後に部が発展し、現在も一部上位校として活躍できているのは、先祖が導いているのでは、と考えるこの頃である。

 

 

 

 

市川 新(いちかわ・あらた)

1937 年生まれ。都立戸山高校(タッチフットボール部)を経て東京大学入学。直ちにアメリカンフットボール部を創部。4年間主将を務める。当時180センチ68キロでFB 兼LB。東京大学都市工学科(環境工学)助教授(部の部長を兼務)。1997年京都大学大学院教授、2001年福岡大学教授(部の相談役を兼務)。74 ?80 年戸山高校監督、関東学連副理事長、日本協会理事を歴任。

文・写真◎市川 新(元関東学生アメリカンフットボール連盟副理事長/元日本アメリカンフットボール協会理事)

text & Photos: Arata Ichikawa, Ph.D.

■参考文献

Comins;A.C.; 1893: Aftermath of ’93, p7

Comins;A.C.; 1893:Ibid 2, p150

Comins;A.C.; 1893:Ibid 3, pp96-99

Comins;A.C.; 1928:History of the ’93 Goat, WPI Jour. Vol.9, July, pp153-154,

桑田権平:1958:自伝、協和出版(私家本)p43

日本体育学会体育史専門分科会:1947:日本スポーツ百年の歩み、ベースボールマガジン社

Worcester Polytechnic Institute: 2011:Tech Bible, pp25-29,

Worcester Polytechnic Institute: 2011:Ibid2, p34

http://wp.wpi.edu/connection/2011/02/23/happy-birthday-gompei/

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2014年10月25日 17:25に投稿されたエントリーのページです。

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